世界の備忘録

歴史上の忘れたくない事件などをまとめていくブログです。

備忘録その67 各地で今も続く名誉殺人

暑くないのに、朝起きると必ず布団がどっかにいってるのってなんなんでしょう。
途中暑いって思ってるんですかね。
探偵ナイトスクープにお願いして絶対蹴らない布団みたいなのを探したいなって一瞬思いましたが、毎晩探偵に見張ってもらわなきゃいけないからものすごい時間かかりそうで却下されそう…っていうどうでもいい考えから始まった、一日でした。
 
 
さて…今日は世界各地で行われている、早く歴史になってほしいと思う、風習(?)についてです。
 
名誉殺人というのは、「一族の名誉を汚した一員を名誉回復のために殺害する」というもので、パキスタンやインド、アフリカなどで頻繁に行われ、人権団体をはじめ多くの人々が批判の声を挙げている問題です。
 
 
具体的にはイスラム教やヒンドゥー教の教えに則って婚前交渉や駆け落ちなどを行った女性を家族が殺害、暴行するなど…
必ずしも「殺人」だけじゃなく、暴力や監禁、追放など含めて「名誉殺人」と呼ぶようです。
 *調べているとレイプ犯の姉妹をリベンジレイプするというような例もあったようですが、え、それってどういう論理?って吃驚。
 
 
該当する宗教と距離が遠いと、どうしても「なんで女性だけ?」とか「残酷すぎる」というのが正直な感想です。
実際教典もこの「私刑」を称賛しているというわけでもなく、教典によっては逆に禁止するような記述もあるようで、解釈の違い(?)や、村によって独自に決めたルールなども原因の一つのようです。
それでも不貞を働いた際には既婚者であれば石打により殺害、未婚者はむち打ち…という明確な記載があるものもあるようです。
 
 
政府や警察なども教えにあるから…ということで見て見ぬふりな場合も多かったそうです。
 
最近では今まで年に1000人もの女性が名誉殺人によって命を落としていたパキスタンで名誉殺人を行った人に対して終身刑が言い渡される法案ができたり、インドでも名誉殺人からの保護を訴える政党ができるなど少しずつ変わってきているようです。
 
村上薫(2017)によるとトルコでは「名誉殺人」という殺人を正当化するような表現を避け、「女性殺人」(ものすごく直球ですね)と呼ぶこともあるそうで、少しずつ意識を変えてきているのかな?という感じもします。
 
 
 
それでもまだ、皆無とはいかないようです。
移民としてヨーロッパやトルコなどに移住した人々の間でまだこの風習が残っていたり、法律ができても、女性の自由が保障されるわけではありません。
法律は起こった殺人事件にしか適用されないので、一族が村八分になったり、女性が虐待・追放されてしまうことを防ぐことはできません。
 
 
 
日本にも姦通罪がありましたし、アジアでも最近まで姦通罪が女性にのみ適用される国があったりするなど、中東の国々での出来事を完全に他人事とは思えない状況にあります。
なんだかんだ不倫などで批判されるのは女性であることが多いような社会的な雰囲気も根強いですしね…
もちろん不倫や人を傷つけるような結果を招くことは女性でも男性でもしてはいけないですが、身内を殺してまで守る名誉ってなんなんだ…と思ってしまいます。
 
ゆっくりかもしれませんが、虐げられている女性が暴力にさらされることなく少しでも自由を手にできるよう、まずは「知る」ことを続けていきたいと思います。
 
 
参考にしたもの
村上薫(2017), 名誉解釈の多様化と暴力―イスタンブルの移住者社会の日常生活をめぐって―『文化人類学』82巻3号, J-STAGE

 パキスタンに関することはこちらを参考にしました。

www.huffingtonpost.jp

 

備忘録その66 終戦のその後~ルワンダ虐殺③~

韓国で日本製品の不買運動が起きているという報道がされていますね…
 
みんながやっている、国民全体がそういう雰囲気ということはなく、「やっている人はやっている」という印象です。積極的にやっているという人やスーパーに出くわしたことはありませんが。都心にはいるんでしょうかね?
相変わらず無印には人いっぱいいますし、丸亀製麺、ココイチなどは賑わっています。
 
SNSを見たり友達に話を聞いても「キリン一番搾り飲まないってのはちょっと無理…」という感じです。
 
 
さて。今日はルワンダ虐殺のその後についてです。
ここでは二つの問題について考えてみたいと思います。
 
①フツの難民問題
終戦すると、加担したり傍観していたフツ族の人々はツチによる報復を恐れて難民となります。
その数約200万と言われています。
 
しかし、難民キャンプの衛生状態などは劣悪で、伝染病により多くのフツ族の人々が亡くなります。
 
この問題には日本の自衛隊もルワンダ難民救援派遣として派遣されました。
 
また、ルワンダ政権の武装集団も難民になっており、この人々がコンゴ・ザイール解放民主勢力連合という武装組織と手を結びます。
この今後の武装組織の反乱が1996年に起こることによって第一次コンゴ戦争が怒るのですが、そうするとコンゴにあった難民キャンプの一部が攻撃対象となってしまうなど、更なる混乱を呼んでしまいます。
 
その直後にルワンダ政府が難民の帰国を認めるなど、1996年待つまでに70万にのぼる難民が帰国しています。
 
ルワンダで終わったと思ったらコンゴ…
戦いの終わりは平和ではないんですよね。
虚しいです。
 
 
②感染症問題
ルワンダ虐殺での大きな被害は虐殺だけではなく、女性が性暴力にさらされたことでもありました。
終戦後、梅毒や淋病などの性病だけでなく、エイズ感染も大きな問題となっていました。
 
エイズに感染した兵士(ルワンダ法務省の報告ではルワンダ軍だけでなくフランス軍兵士など、混乱に紛れた暴行が横行していました)や民間人の暴行によって女性が感染し、生まれてきた子供たちがエイズに感染している…という最悪の連鎖が続いています。
 
平山恵(2016)によるとこうしたエイズ患者はコミュニティからのけ者にされることも多々あり、傷つきやすい状況におかれると言います。
 
 
 
終戦したからといって終わりじゃないということを端的に見せてくれる例がこういった難民や感染症の母子感染などではないかな…と思います。
 
なかなかエイズの治療やトラウマの治癒などが追い付いていないようですが、こういった女性や子供たちがこれ以上増えないよう、できることを考えたいです。
 
 
次の記事でブルンジでも多くのツチが虐殺されたことに触れたいと思っていたのですが、こちらの記事によくまとまっていたので、こちらをおすすめします。 
こういうのを見ると、報道における注目の仕方ということについても、考えてしまいますね。
 
参考にしたもの
平山恵(2016), 多重受苦者を対象とする援助配慮の一考察ールワンダ虐殺後のHIV感染者の心理から探るー, 『明治学院大学国際学研究』49

備忘録その65 用意された虐殺~ルワンダ虐殺その②~

納期が基本的に月曜日なので、前までは日曜日が忙しい感じだったのですが、最近はどうにか週末には仕事をしなくてもいいように調節するようになりました。
掃除やら洗濯やらなんやらやってたら週末もすぐ終わってしまいますが…
 
 
さて、今日は1994年のルワンダ虐殺です。
 
明確に宣戦布告というわけではないですが、大きな混乱は4月6日にルワンダのハビャリマナ大統領、ブルンジのンタラミリャ大統領、ルワンダの軍参謀総長らが乗った飛行機が撃墜されたことから始まりました。
ちなみにまだ犯人はわかっていませんが、ルワンダ愛国戦線、もしくは過激派フツという説が一番有力?のようです。
 
 
これによってルワンダは放って置くと政治的に空白期ができてしまいます。
誰もがそれを恐れていましたが、大統領代行の順位として一番優勢だった女性首相、アガート・ウィリンジイマナ首相は役不足だと判断されていました。
 
このウィリンジイマナ首相は大統領暗殺後、国民に沈静化を訴えるつもりでラジオ局に向かう予定でしたが、護衛のベルギー兵10名や国連から派遣されたガーナ人兵士5名が殺害され、彼女はその場こそ避けましたが、のちに夫妻で射殺されます。
 
 
こうした混乱の中、ベルギーやフランスはルワンダに住む外国人を退去させます。
また、前回のブログに書いたように、フツ族がツチ族に対してヘイトスピーチを行うなど、虐殺の条件となるような状況は全て揃っていたわけです。
 
フツの民兵は同じフツ族の人々に同じ村や、隣人のツチを殺すように命じました。
これを拒否した穏健派フツの人々もまた、過激派に殺されてしまいます。
 
結局ツチ族は80万人が犠牲になったと言われていて、虐殺に加わった人はフツ人成人男性の14~17%と言われています。
トゥワ族はツチ族に屈辱感を与えるための強姦要員として民兵に加えられるなど、卑劣なことも行われていました。
 
驚くべきことに、終戦宣言がなされたのは大統領暗殺から100日後です。
100日(大統領暗殺日などをのぞけばもっと短い)で80万人…とんでもない数です。
 
 
終戦したらしたで、また色んな問題が待っています。
本当に、どうしてこんなことになってしまったんでしょうね…
歴史って現代から見ると悪い事件も起こるべくして起こっているような、伏線がしっかりあります。
 
でも、伏線引いているうちは、それが伏線だって気付かないんですよね。
だから予防が難しいのですが…
今は色んなケースを知ることで、伏線に対して敏感になれるような目を鍛えたいと強く感じました。
 

備忘録その64 因縁のツチ、フツ、そしてトゥワ~ルワンダ虐殺①~

今日からルワンダについてまとめてみたいと思います。
 
 
高校生くらいの時に映画『ホテルルワンダ』を観てショックを受け、それ以降コンスタントに記事を読んだり、本を読んだり、ドキュメンタリーのような動画を観たりしていた事件なのですが、自分で書くために色々調べているとまた違った気持ちになりました。

 

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これが1994年という最近に起きた出来事だということ、そしてヘイトスピーチなどの扇動によってご近所同士殺し合うという最悪の行動を起こさせてしまったことは絶対に覚えておかないといけないと思います。
 
 
今日はまずツチ族、フツ族、そしてトゥワ族の歴史的背景をまとめておきたいと思います。
 
 
ルワンダ虐殺といえば、大雑把に言うとツチ族(牧畜民族)とフツ族(農耕民族)の対立という認識が一般的だと思いますが、この民族はそもそも大きな違いはないとされていました。
言語、宗教、文化の面で同一で、考古学的にどちらが先に定住を始めたなどという証拠もなかったからです。
つまり牧畜民族と農耕民族に分かれたのはつい最近ということです。
 
 
証拠がない=同一民族とは限りませんが、それでも言語学的に違いがないとすればかなり近い関係であることは間違いないのではと思います。
 
 
二つの民族の分化を進めたのは19世紀末のヨーロッパ諸国によるアフリカ分割でした。
現在のルワンダがある地域は最初はドイツ領となりますが1919年にはベルギー領となります。
 
ベルギーが行ったのは、ツチ族優遇の政治でした。税や労働の面だけでなく、教育もツチ族だけが受けられるなどの差別がありました。1930年にはツチ族にのみ身分証明書のようなカードを作っています。
 
 
しかし、第二次大戦後、アフリカ各地で独立への機運が高まると、ツチ族もまた独立に向けて動き始めます。
そうすると、ベルギーはどうするでしょう。
フツ族(元々数では多数派だった)を支援するようになるのです。
 
1959年にはフツの指導者がツチ族に殺害されたという情報が流れ(誤報でした)、お互い報復するというツチ―フツ間の初めての暴力事件が起きます。
 
1961年には王政が廃止され、フツ系のグレゴワール・カイバンダが大統領になります。
その頃多くのツチ族が殺害されたり、難民になったりしました。
 
 
この難民がルワンダ愛国戦線を結成し、ルワンダへの帰還を目指すようになります。
フツはフツで、国内でツチを侮蔑するような雑誌が作られていたりするなど、あちこちで風船がふくらむかのようにお互いへの悪い感情が募っていくのでした…
 
 
 
トゥワ族は?
以前ブログにも書いた内容ですが、トゥワ族はルワンダ虐殺で大きな被害を被っています。
 
フツやツチよりも先にこの土地に住んでいたのがトゥワ族です。
現在でも差別や偏見にさらされていて、フツVSツチだけではないんだということを知っておかなきゃいけないな、と思います。
 
 
 
今回もう一度色々な資料を見ていてやっぱり植民地が原因か…というのが最初の感想でした。
鍋島孝子(2011)でも、これほど対立が深まってしまう理由として、植民地化によって近代化が進み、元のアフリカ的な社会階層が多層化することなどを挙げています。
 
 
でもそれだけが理由だとしたらトゥワ族が昔から、そして今でも差別され続けるのはどういうことなんだって思うんですよね…
このことも元いたトゥワ族の土地にツチやフツが入って来たことによると考えればいいのか、ルワンダの余剰生産が出にくい土地の特徴(土地を多く持っていたほうがいい)が原因だと考えた方がいいのか(一理あるけどトゥワ族は狩猟民族だしな…)、それとも人数が少ない部族や、弱い者を虐げる人間の悪い部分としか説明がつかないのか…
 
 
まぁ話は逸れましたが、やはりこのルワンダ虐殺も、始まりは大国に振り回されている感がありますね。
次回は有名ではありますが、虐殺が起きていた頃のこと、そしてその次はその後のルワンダについても調べてみたいと思います。
 
 
参考にしたもの
鍋島孝子(2011), ルワンダ虐殺にみる紛争予防の失敗:国際政治にとっての民族紛争のリスク概念,  北海道大学, 『メディア・コミュニケーション』61

備忘録その63 最低限のことを要求しただけ~バナナ労働者虐殺事件~

突然ですが、バナナはお好きですか?
私はあまり好きではありません。果物は果汁が多いほうが好きなので…
最近はもっぱら桃やプラムを買っています。
 
まぁ私の好みはどうでもいいですが、今日はその名も「バナナ労働者虐殺事件」について書きたいと思います。
 
虐殺事件が起きたのは南米・コロンビアですが、南米の各地で労働者の搾取が行われていました(今もきっとあるとは思いますが…)
 
 
始まりは1870年。一人のアメリカ人が航海中にジャマイカからバナナを持って来たことから始まります。
彼は実業家と手を組んでボストン・フルーツ・カンパニーを立ち上げます。
 
他の実業家も安価で売れる果物としてバナナに目をつけ、鉄道建設をして南米の労働者を低い賃金で雇い、アメリカでバナナを安く売ることを考えました。
 
 
この二つの事業が1899年に合併し、ユナイテッド・フルーツが設立されます。
どんどん事業を拡げていきますが、1928年、コロンビアでストライキが起きます。
 
労働者の要求は「契約書の作成」でした。
これがないと盾にするものがなくなりますもんね。いくらでも働かされてしまうことになるのです。
 
これをコロンビア軍が「共産主義革命を防ぐため」という口実のもと銃撃し、約50人~2000人(諸説あります)が犠牲になりました。
 
 
たかがバナナ、されどバナナです。
もうこの頃には各国政府や軍が介入し、生産・販売が続けられるようになります。
それくらい大きな富を生み出す事業だったからです。
搾取をやめると国としてもアメリカとの関係が危うくなるので、やめることはできなかったということですね。
 
アメリカとしても中南米からの輸入に頼っていた大きな事業なので、労働者の革命につながってしまうと困るのです。
 
ユナイテッド・フルーツは紆余曲折あった後、1984年にチキータ・ブランドと名前を変え、現在もバナナ業界で大きなシェアを占めているブランドです。
 
現在はどうなんでしょう。
さすがに契約書はあるでしょうか。
でも、最低限の約束も結ばせてもらえない人はまだ世界中にいると思います。
小国の宿命と言われるとそうかもしれませんが、基本の生活は守られていてほしいですね。バナナに限らず。
 
最近日本でも技能実習生の待遇がニュースになっていたのもあって、労働に注目してみました。
 
こういうことを知っておくと、スーパーで品物を見る目がちょっと変わる気がします。
 
参考にしたもの
wikipedia(英語版)Banana Massacre
Banana Massacre(アニメーション)

ちょっと休憩 仁川プチ旅行

週末に仁川(インチョン)に行ってきました。
まさかトランプ大統領と金正恩委員長と文在寅大統領が軍事境界線で会うことになるとは思ってもみなかったのですが…
いつも思いますがトランプ大統領が70代というのもびっくりですが、金正恩委員長35歳ってのも何度見ても信じられない…
まぁ思うところは色々ですが、とりあえず置いといて…
 
 
 
仁川というと、空港というイメージが強く、海外行くとき以外は用事ないな…とついこの間まで思っていたのですが…
実は空港から地下鉄仁川駅がある辺りまでは車で1時間くらいかかるようで、仁川駅付近には中華街があったり、旧日本人居留区があったりと色々面白そうなエリアがたくさんあります
 
 
水原市から空港までは途中専用道路を使うので高速代も高い(約1万₩)のですが、仁川駅までだと一般の料金(大体4000₩以内)で行くことができます。
 
 
天気が怪しかったですがまず向かったのは「月尾島」。
海沿いを歩けるようになっているのですが、カモメが多すぎて恐怖でした。
カモメがいない隙を狙って…
 

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昭和な雰囲気の観光地という感じで、日曜日でもゆっくり歩くことができました。
 
 
絶対あるだろうなと思っていたこんな記念碑が立っていました。
仁川上陸作戦の碑ですね。

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月尾公園には歴史を説明するこんなものも…

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1950年9月にマッカーサー指導のもと、米軍が仁川に上陸したその名も「仁川上陸作戦」を伝えるためのものですね。
6月に始まった朝鮮戦争で南に進んでいた北朝鮮を止めるため、ということでしたがこの作戦で流れは変わったと言われています。
多くの戦死者や捕虜を出した戦いでもありますね。
 
 
お昼には中華街(華僑の方の居住地というよりはテーマパーク的な場所でした)で「白いジャージャー麺」を食べ

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オシャレカフェに行き(中華街の一角にある「アキラコーヒー」さん)、良いリフレッシュになりました。

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7月ですね。
鹿児島の大雨が心配です…大きな被害がないよう、祈っています。

備忘録その62 カナダの先住民迫害問題

七月ですね。
大雨やヨーロッパの熱波など、異常気象も気になるところです。
 
 
さて、今日は六月初旬に書かれた記事を見て、一度書き留めておこうと思っていたことです。
 
2019年6月4日”カナダ先住民女性は「ジェノサイド」の犠牲者 最終報告書”
 
 
カナダで記事のタイトルにある通り、カナダの先住民の女性が多数失踪したり、殺害されていることについて、「ジェノサイドである」と認定する報告書が提出されたということです。
 
もちろん満場一致というわけではなく、「ジェノサイド」と認めるには国際的・法的に当てはまらない部分があるとして反論があるようですが
 
私が驚いたのはこの失踪・殺人事件が昔のことではなく最近三十年のものであったということ。
1980年から2012年まででカナダの先住民160万人のうち、およそ1200人(もっと多いかもしれないらしい)の女性や少女が殺害されたり、失踪したりしているのです。
 
 
なんでもカナダでは先住民というだけで暴力や殺害の危険にさらされる確率が他のカナダの女性よりも7倍高いと言われているらしく、日々危険にさらされているということのようです。
 
 
これに「ジェノサイド」という名前をつけていいのかについては私も疑問があります。
確かにこれによって注目を集めたり、賠償の問題などがあったりして、抑止力はあるかもしれませんが、むやみにつけると差別を助長することもあるんじゃないか、と思ってしまうのです。
 
 
しかし、こんな名前をつけなくても、1200人の被害者や、今も日常的に暴力にさらされているという事実は変わりません。
 
他の記事では男性も危険にさらされたり、失業率が高かったり、低賃金だったり、明らかな差別が行われているという記述もあります。
 
 
「ジェノサイド」であろうとなかろうと、問題は問題です。
トルドー首相就任後、迫害を正式に認め、様々なバックグラウンドを持った議員が入閣したことで少しずつ変わってはきているようですが…。
(それでも一人一人考えが変わらなければ変わりませんよね)
 
 
ジェノサイドかどうかの議論が出てからでは遅い気もしますが、それでも目を向けることが大事なんじゃないかな、と思いました。
日本はこういった多様なバックグラウンドについては少し疎いくらいのレベルだったかもしれませんが、差別はずっとありましたし、これから構成員がより多様化していって、考える機会も増えるんじゃないかと思います。
 
何度も書いている気がしますが、自分たちと違うからとか、マイノリティだからという理由で行う差別がその後何を生み出すか、もう歴史的な資料は充分出そろっています。
 
 
参考にしたもの 
ハフィントンポスト”変化するカナダ、先住民族迫害を正式に認め調査開始へ”2015年12月20日
AFP BBNEWS”カナダ先住民女性は「ジェノサイド」の犠牲者 最終報告書”2019年6月4日

ちょっと寄り道⑩ 『戦争は女の顔をしていない』

少しずつ読んでいた『戦争は女の顔をしていない』ですが、やっと読み終わりました。
 
韓国語版で読んだので、余計に時間がかかりました。
日本語母語話者としては韓国語で本を読むのは全部ひらがな+分かち書きで書かれたような難しさを感じます。
 
 
ウクライナ出身のベラルーシ人であるスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの作品で、2015年のノーベル文学賞を受賞しています。
 
取材記録というか、インタビュー記事に近いのですが、著者の脚色は一切なく(提示する順番などはもちろん決めていると思いますが)、それがまたドラマチックな戦争フィクションより数倍読み応えがあるというか…重いし、読みやすいかと聞かれると読みづらいです(韓国語だったからなおさら?)。
でも途中から読まなきゃという義務感が芽生えます。
 
 
インタビューした女性によっては数行で終わったり、逆に何ページも続いていたり、その内容も「すごい気迫だなぁ」と思わせるものから、「相当な恐怖だったんだな」と思わせるものまでそれぞれに物語があります。
また、もちろん「別れ」や「寂しさ」なども十分に感じられますが、身近な人の死とか、生き別れになるとか、戦争と聞いて思いつくような残酷さとはまた違った一面を見せてくれています。
 
 
 
うまく説明できないのですが、意気込んで戦争に行くというより、「これから行くけど、チョコレートってあっち行っても食べられるかな?」みたいな無邪気さが垣間見えるところが余計に残酷な気がしました。
 
負傷兵を運ぶために戦闘の中を往来しないといけない時は無意識に自分の魅力だと思っていた脚や顔をかばってたなどのエピソードも平凡な女の子の一面が見え隠れしていてずっしり来ます…
 
 
 
この作品はドイツと戦うソ連の少女兵の記憶を集めたものでしたが、読んでいるとこれがどこの戦争とか、誰が悪いとかは気にならなくなります。
これがもしドイツの軍隊の話でも、どの時代のどの戦争でも、同じように重く、残酷だったと思います。
かといって戦争は男性だけがやればいいとか、そういうことでは決してありません。
男性だって恐怖を感じ、その人や家族の人生が一変してしまうという点では同じです。
 
 
頭の中ごちゃごちゃですが、戦争ってこういうことか。というのがひしひし感じられる作品です。おすすめです。
 
内容は重いですが、戦争ならではの心臓に悪い描写という点ではいくらか読みやすい…?かなと思います。
同じ著者なら『ボタン穴から見た戦争』の方が残酷な場面の描写が多く(一度挫折してます)、彼女の作品を読むならまずこちらを読むのをおすすめします。
 

 

戦争は女の顔をしていない (岩波現代文庫)

戦争は女の顔をしていない (岩波現代文庫)

 

 

備忘録その61 亡命手段としてのハイジャック

NHKでG20の中継を、これだけ集まると準備したり警備する人は本当に大変だろうなぁと思いながら見ていました。
 
全国でコインロッカーやトイレのゴミ箱問題もあるようで、ここまでの厳戒態勢ではなくても、もっと長期間警備などの面で緊張状態が続くオリンピックはどうなるんだろう…と心配になりました。
 
 
さて、今日は戦争ではなく、ハイジャック事件について書いてみたいと思います。
 
 
 
1996年、エチオピア航空961便がオーストラリアへの亡命を要求する三人によって、ハイジャックされました。
 
アディスアベバ発の飛行機に乗った犯人たちは副操縦士を襲ってコックピットを占拠し、オーストラリア行きを要求しました。
ケニアやナイロビを経由する予定だったので充分な燃料はありませんでした。
 
しかし、その機体の最大航続距離を知っていた彼らは機長の話を嘘だと思い、飛行を続行させました。
 
結局燃料は切れ、グライダー状態になっていた飛行機はインド洋の島国であるコモロの空港への着陸を狙っていましたが、結局機長が犯人と争っている間に空港を見失い、海面に突っ込んでしまいます。
 
乗客乗員175名のうち123名が死亡しました。
日本人の犠牲者もいらっしゃったようですね。
 
 
 
実はエチオピアからの亡命と関係するハイジャックは、つい最近ともいえる2014年にも起きました。
 
2014年2月17日、エチオピアの首都、アディスアベバ・ボレ国際空港を離陸し、ローマ経由でミラノに向かっていたエチオピア航空702便がハイジャックされました。
 
乗員・乗客は202名だったのですが、犯人は副操縦士でした。
 
機長がトイレに行った隙にコックピットのドアをロックし、ジュネーヴの管制官と交信し、自身がエチオピアに送還されないように交渉します。
つまり、スイスに亡命することが望みでした。これだけが望みだったので、彼は非武装でした。
 
そしてジュネーヴ国際空港に着陸します。
その後はロープを使ってコックピットから飛行機を降り、警察に捕まりました。
 
 
この副操縦士は31歳のHailemedhin Abera Tegegnという青年でした。
 
詳しい亡命理由については明かされていないのですが、当時エチオピアでは民族弾圧が行われていたりしたということで、この副操縦士も命の危険を感じていたとのことです。
 
スイスで懲役刑を課せられるということでしたが、その後どうなっているのでしょうかね…。
 
 
2014年のハイジャックはけが人や死者こそ出ていないものの、どちらもこんな極端な事件が起きるほどエチオピアで一般市民が脅威を感じるような状況だったということなんですかね。
エリトリアとの国境争いなどで1990年代後半からは混乱が続いたりもしていました。
 
ハイジャックじゃなくても、リオオリンピックのマラソンでエチオピアの選手がオロモ族への圧政を批判するポーズを取り、アメリカに亡命したこと(後に帰国)も話題になっていました。
 
他の人を巻き込むような方法は非難されるべきです。
特に1996年の事件は多くの犠牲者が出ていますし、許されることではありません。
でも、具体的にその国で一般市民が脅威を感じるようなことがあったのなら、その国の情勢や政権に根本的な問題があるわけで…月並みですがこういった事件が起きたことを政府は深刻に受け止めて改善するべきだと感じました。
 
参考にしたもの
CNNJapan「 エチオピア航空機乗っ取り、副操縦士を逮捕」2014年2月18日
六辻障二「男子マラソン銀メダリストの講義:エチオピア政府による弾圧とは」2016年8月22日

備忘録その60 6人に1人って多いなぁ

 
キンドルストアで本を選ぶとき、もう少しサンプル読めるようにしてもらえるとありがたいなぁと思う今日この頃です…
 
 
さて、今日は歴史というよりは今現在の問題であり、これからも深まっていくであろうことについて、書いてみたいと思います。
 
それは「子供の貧困」です。
以前『フロリダ・プロジェクト』という映画を観て少し触れた問題ですが…
もう少し日本の制度に照らし合わせて考えてみたいと思います。
 
 
今回の記事に出てくる例や数字は『子どもと貧困』(朝日新聞取材班著)を参考にしています。
 
 
タイトルにもある通り、6人に1人の子供が貧困(2017年の時点で)ということなのですが、具体的なこの数字を見て、単純に「多い」、というのが最初の感想でした。
 
30人のクラスで5人ということですもんね。多いです。
もちろん子供は会社に勤めて収入を得るということはできないので、親の賃金が十分ではない場合、子供もその困難に陥る…というようになります。
 
 
そもそも、貧困ってどこからどこまでを言うのか、というのが曖昧なのですが、「絶対的貧困」と呼ばれる一切の仕事がなく、食うや食わずやの毎日を送る人々だけでなく、生活保護と自立の狭間にいるような家庭がとても多いとのことです。
 
 
働けると判断されると、生活保護はもらえないことが多い。車を持っていても、小さな畑を持っていても、なかなかもらえない。
でも働いたからといって充分な収入が得られるわけでもない。
 
かといって生活保護を受けると活動の幅が狭まり、子供のためにより良い環境を求めるというようなことが難しくなる…
 
 
また、生活保護を受けようとすると周りに「仕事増やせば?」などと言われたり、「ダメな親」と責められたりする恐怖から現状をなかなか人に言い出せない人も多いようです。
 
一旦0にして保護を受け20にするか、自由はあるけど10だけか、なぜその二択なんでしょう。
自由があって20にすることができる賃金体制ができなければ、こういった人は増え続けると思います。
 
 
一部のニュースなどを見ていると、日本はまだまだ成長を続けていて、みんながどんどん豊かになっていて、みんながオリンピックや万博を待ち望んでいて、みんなが夢を見ているかのように錯覚することがあります。
 
でも、そのオリンピックや万博をこれから迎える子供たちがこんなに困っている。
夢見るなんて三の次で、今日のお風呂、明日の着る物がない。
それどころか、小さい子は自分が困っていることも気付かずに、空腹を耐える母の隣で白ご飯に塩をふって食べていると思うと、なんでもう少し回るべきところにお金が回らないんだろう。
時間をかけるべき議論が全然進んでいないんだろう、と、憤りを感じます。
 
2014年に「子供の貧困対策の推進に関する法律」が施行されていますが、ざっと目を通してもあまり具体的ではないという印象を受けました。もちろんその家庭によって対応を変えていかなければならないので法律で一括で決められるものでもないとは思うのですが…
法律で決めたところで、助けを求めるという第一ハードルをなかなか越えられず、手遅れになってしまう人もいるので…。本当に難しい問題です。
 
 
微力ですが様々な分野からこの現状を訴え、困っている親子を支えている団体や弁護士、医師、教師、ソーシャルワーカー、ジャーナリストなどの方々への支援や寄付などはしていきたいな、と思いました。
 
 
過去に起きたことをメインに書いているブログですが、現在進行形の問題についてもちゃんと知る必要があると思い、記事にしました。
 
個人的にこの『子どもと貧困』という本は、母親や子供から話を聞くのが難しかっただろうにしっかり取材されていて、データもちゃんと提示されているので、一読の価値ありだと思います。
 

 

【増補版】子どもと貧困 (朝日文庫)

【増補版】子どもと貧困 (朝日文庫)