世界の備忘録

歴史上の忘れたくない事件などをまとめていくブログです。

備忘録その15 八甲田山雪中行軍遭難事件

このブログは悲劇について書くというものですが
民間人だけじゃなく軍人の犠牲だってもちろん悲劇なわけで…
 
今まで書いてきた戦争についての記事ではどうしても軍人→民間人の虐殺に焦点をあてることが多くなってしまっていたのですが、基本的に戦場に向かう軍人もまた、悲劇に巻き込まれてると言えると思っています。
 
残忍な虐殺行為は別ですが、国の指令で動き、背いたら罰せられたり、自国の勝利のためにと信じて戦っている軍人一人一人を責めることはできないという考え方です。
カティンの森事件のように、時には政治的に敵国から利用されることもありますし。
 
 
ということで今日は日本で1902年に起こった陸軍の雪中行軍中の遭難事件について書いてみたいと思います。
概要は1902年1月、陸軍第八師団歩兵第五連隊の雪中行軍参加者210名のうち、199名が亡くなった、という大事件です。
膨大な数です。 
 
 
小説になったり、映画化もされていますが、日本史の教科書には載ってましたかね…?
私は大人になって知ったような気がします。(忘れてるだけかも)
 
この雪中行軍を行う背景としては、1894年の日清戦争がありました。
この時冬の寒い中での戦争で苦戦を強いられたため、ロシアとの戦いに備えて雪中行軍を行うことになりました。
 
しかし、軍の考えは甘かったと言えます。
寒さに対する装備は乏しく、地元青森の村民が中止を勧めてもやめませんでした。
 
初日の午後から暴風雨となり、ソリ隊に遅れが出るなどし、夜になってようやく露営地を定めますが、火を起こすこともままならないような状況で、食事も暖もろくに取れませんでした。
 
二日目。
食事もろくに取れず、凍傷の危険もあるため帰営が決まります。
しかしここから軍は何度も道に迷ってしまいます。これにより遭難状態。
 
崖を登ることになった時に落伍者が出たり、凍死者が出て全体の士気も下がります。
 
 
その後も続く暴風雪で、第二露営地やさまよっているうちに次々と死者が出ます。
 
 
軍が戻って来ないため、救援隊が捜索へ向かいますが、暴風雪でそれも厳しく、ようやく再開した行軍五日目からは、各地で多くの遺体を発見することになりました。
 

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立ったまま仮死状態で発見された後藤房之助伍長(画像お借りしてます)
 
結局生存者は11人、それも重度の凍傷などを負い、四肢の切断などを余儀なくされたりしました。
 
天候はどうにもならないにしても、地元民の制止を聞き入れなかったり、羽織るものが毛糸の上着一枚だったり(現代の東京でも寒いわ)、明らかに備えができていないし、無謀すぎた訓練でした。
 
戦争真っただ中なら百歩譲って判断が鈍ったと言えても、これは訓練であり、1月の青森の雪山にわざわざ立ち向かう必要はなかったんじゃないかと…
上層部の甘い判断で多くの若者が命を落としたのは本当に悲しいことです。
 
そしてこれも虚しいことですが、この行軍を生き残り、比較的元気だった倉石一大尉は日露戦争で命を落とします。
時代を恨むしかないのですかね…