ここまでの備忘録でも、国家に振り回される市民が巻き込まれた事件について調べてきましたが、今回の対馬丸の事件は私が一番虚しくなった事件です。
対馬丸とは?
1941年から陸軍の船として作戦に投入されたこともある船。
1942年からは物資輸送の船として使われていました。
1944年8月、この船は多くの疎開児童を乗せたまま、アメリカの軍艦から発射された魚雷攻撃に遭い撃沈、1482人もの犠牲を生むことになりました。
船が疎開船として使われることになった経緯
1944年7月に起きたサイパンの戦いで日本軍は敗北し、ほぼ全滅となります。
この島での戦いをアメリカが勝ち取ったということは、今までにないほど近い場所にアメリカの拠点ができるということでした。
そうすると、無補給での北海道や東北の一部を除く日本全国への空爆が可能になります。
これを受けて政府は当時の沖縄県知事・泉守紀に女性や子供を台湾や本土へ疎開させるよう命令します。
この命令を安全な場所に行けるならとすんなり受け入れる人もいれば、海を渡って見知らぬ土地に行くことに不安を抱く親もいたそうです。
結局思うように疎開児童は集まらず、結局は隣組や学校から強制的に人数を確保するようなことになりました。
疎開には軍艦を使ってほしいという要望もありましたが、軍にそんな余裕はありませんでした。
結局対馬丸を含む三隻が疎開船として多くの児童を乗せて那覇から長崎へ向かう途中、アメリカの軍艦の魚雷攻撃に遭います。
この頃海はアメリカ軍の軍艦がたくさんいるような状態で、非常に危ない状態でした。護衛艦をつけた船団とはいえ、航路自体が危ないので、対馬丸の西沢船長はジグザグの航路を提案しますが、軍の命令ということで乗船していた陸軍少尉から却下され、結局直線航路になります。
また、対馬丸を含む船団がレーダー波に対する電波妨害を行っており、アメリカ軍から重大な任務を行っていると思われたのも夜間に攻撃を受けたことの一因だそうです。
山岸良二先生の記事https://toyokeizai.net/articles/-/132116によると、アメリカ軍は疎開児童が乗っていることは知らなかっただろうということです。また当時は軍であれ、民間であれ攻撃できる無制限潜水艦作戦というのが多くの国で実施されていました。
魚雷が二発当たり、対馬丸は沈没し、甲板に出られなかったり海で溺れたり、漂流後亡くなった人々の数は1400人を超えます。
家族と離れて不安を抱いていた子供たちのことを考えると悲しいです。
レーダーが妨害されてたってなんだって、船の外から誰がどんな理由で乗っているのかは見えない。
敵は敵として一括りになって、一人ひとりが見えなくなってしまう戦争が生み出した残酷な事件だと思います。
また、護衛艦や一緒に船団を組んでた船があるのに、これらの船が救助にあたっていないことを不思議に思っていたのですが、どうやらこれは1943年に湖南丸という貨客船が魚雷攻撃に遭い、生存者救助にあたった船も攻撃され、多くの犠牲者を出していたことから、対馬丸が撃沈された際に護衛艦を含めて全速力で現場を離れたそうです。
児童が乗っている他の船はまだしも、護衛艦まで逃げてしまうと、なんのための護衛と思ってしまうのですが…戦力を減らすわけにはいかないという判断だったのでしょう。
また、この事件の生存者は事件後の緘口令にも苦しむことになります。
政府としては疎開が進まなくなることを恐れたようです。家族は手紙が来ないことなどから徐々にこの事件を知るようになり、50年に遺族会が発足します。
以前下に貼り付けたアニメ映画なども観ていたのですが、改めて色々考えるきっかけになりました。
いつか記念館も行ってみたいと思います。
対馬丸記念館ホームページhttp://tsushimamaru.or.jp/
ゆたかはじめ(2009) 小桜は海に散る:沖縄の学童疎開船対馬丸の撃沈, 『海事博物館研究年報』, 神戸大学大学院海事科学研究科