今日は南北戦争中のアメリカで起こった虐殺についてです。
さらっとだけ概要を書くとこんな感じ。
1864年11月29日、米軍が無抵抗のシャイアン族とアラパホー族に対して行った虐殺。
単純ですね。単純さがまた虚しいです。
しかしこの事件もまた、調べてみると考えるべきところがたくさんありました。
なぜ先住民は迫害されていたのか?
コロンブスの初上陸の頃から因縁(?)の関係ではありました。コロンブスらによる虐殺や奴隷化が行われており、入植者が持ち込んだ疫病や環境の変化によって多くの先住民が命を落としました。
一時的に友好的な関係を保っていた時期もありましたが、入植者側の必要に応じて(?)部族同士の代理戦争を起こしたり、討伐戦争が起きるなどして南北戦争までの時期には東部には先住民の住む場所はなかったと言います。
サンドクリークの虐殺は1864年なのでもう既に多くの部族による多くの戦いが行われた後に起こった事件です。
虐殺事件は一日の間に起こっていますが、その前から軍や警察によって先住民が殺害されたり、「インディアン撲滅キャンペーン」なるものが地元新聞社主催で行われていました(普通に怖いです)。
それにも関わらず、シャイアン族とアラパホー族の酋長たちは和平会談のためにデンバーの米軍基地を訪れます。ジョン・チヴィントン大佐らは彼らに移住を命令します。
先住民の中にも交戦派と和平派がおり、交戦派が優勢ではあったものの和平派の酋長であるブラックケトルと共に移り住み、和平派の野営にとどまった人もいたそうです。
しかし11月29日、この野営を訪れたチヴィントン率いる大隊は、この野営が和平派の野営であることを確認しておきながらも、大砲を撃ち込みます。ブラックケトル酋長は必死でここが和平派の陣地であることを白旗を振ってアピールしますが、全く意味のないことでした。
自主的に武装解除していた和平派の男たちや多くの女性、子供がこの虐殺によって殺害されます。
この虐殺を「インディアン撲滅キャンぺーン」は褒めたたえます。まぁそりゃそうですよね。
東部の白人社会からはさすがにチヴィントンへの批判が高まりますが、それでも彼の起こした行動については評価されたりもします。
セオドア・ルーズベルトもその一人で、正当な行為だったという風に述べています。
ここでこの事件の時代背景をもう一度考えてみます。
南北戦争中でしたよね?
南北戦争と言えば、黒人の奴隷解放というのが真っ先に浮かぶ方もいるのではないでしょうか。
奴隷解放と言えば、あの大きなリンカーン像が浮かぶ人もいるかもしれません。
英雄として語られることの多いリンカーンですが、先住民への政策はどうだったのでしょうか。
彼の政策として先住民に関わるものの一つに「ホームステッド法」があります。
これにより先住民は遊牧民であれ狩猟民であれ定住を強制させられ、農業に従事させられることになります。
また、この法律により狩りができなくなり飢餓状態が続いていたダコタ・スー族による暴動とそののちのダコタ・スー族を強制収容所に送ったり38人同時処刑というとんでもない処刑、ナバホ族の収容所への徒歩連行など彼の統治下で行われた数々の政策を見るだけでもどんな立場だったかはわかりますね。
特定の民族や少数派に対する恨みや排除…どこかで見たことありますね。
遠い国から見てるだけなので言い切れませんが、ホロコースト後のドイツの戦後処理と比較すると、どうしてもこういった悲劇の上に成り立っているという感覚が足りていないんじゃないかな?という気もします…政治家たちの正当化発言もそうですし、こういった戦争を美化する作品も数々ありますしね…人種差別への意識なども絡んで余計に難しい気もします。
また、こういった排斥運動の一つの問題として、文化への理解が足りなかったという意見をよく見るのですが、本当にその通りだと思います。
時代が違うので知る機会自体が少なかったとしても、歩み寄るのではなく上から踏みつけてどかすという考え方なので、「和平」の意味自体も双方で違っていたんだろうなと思います。
アメリカに住んでもいないですし、アメリカ人でも先住民の子孫とかでもないので、薄っぺらいことしか言えませんが、当事者じゃないからこそ多面的に見て勉強したいです。
恥ずかしながらアメリカの歴史については中学高校の世界史レベルを超えていない(卒業後の年数差し引くと本当に全くの無知レベル)なのでこれを機にもっと勉強しなきゃ…
参考にしたもの
チェラニ・ブラマ「先住民族の孤立を守るべき理由」
ナショナル・パーク・サービスホームページよりhttps://www.nps.gov/sand/index.htm