世界の備忘録

歴史上の忘れたくない事件などをまとめていくブログです。

備忘録その72 法王の亡命に伴う犠牲~チベット問題②~

ネットで「ふつう」の歯ブラシを買ったのに「やわらかめ」が届きました。
我慢して使おうにいもなんとなく譲れない部分だったので返品処理をすることにしたんですが、販売している会社が電話に出ず、めんどくさいことになっております。
 
 
さて今日は…
 
チベット問題のうちダライ・ラマ14世の亡命について書こうかなと思ったのですが、ダライ・ラマ法王の公式サイトがあるのですね。
 
ここにある生い立ち~亡命の経緯を参考にして、自分がわからないところは情報を足して書いてみたいと思います。
 
 
世界一有名な難民とも呼ばれているダライ・ラマ14世ですが亡命したのは1959年3月、彼が24歳の時のことでした。
 
経緯を簡単に説明すると、ある日中国軍からダライ・ラマ14世に武装警備隊なしなどの条件をつけて観劇に招待します(招待しておいて色んな条件をつける…怪しすぎる)
これによって中国側がダライ・ラマ14世を拉致しようとしているという疑念が生まれます。
 
これを食い止めようとしたチベットの人々はダライ・ラマ14世が宮殿から出られないように取り囲みます。
中国の人民解放軍はもちろん解散を要求しますが三日間も小競り合いが続き、このラサだけで10000人以上の死者が出たと言われています。
 
これによって大混乱に陥ったラサですが、ダライ・ラマ14世は神託官に助言を求め、国を離れるよう言われます。実際に宮殿は砲撃を受けていました。
そしてインドへ亡命し、臨時政府を樹立します。
 
インド政府にはラサでの混乱が起こった時に既に支援を求めていました。
法王について80000人の市民もインドへ亡命したと言われています。
 
私は、この辺りの部分がちょっと引っかかっていました。
法王が混乱の中で国を置いて亡命してしまったら、残る人々はどう思うのか、という部分です。
 
 
でもここがやはり宗教の感覚がない私の勝手な考えだったようです。
当時は自由な地でその宗教や伝統を守るということが優先だとされ、ダライ・ラマの亡命と亡命政府の樹立に関しては一定の評価があるようですね。
その後何度も帰還を望む声が上がってもいますが、亡命政府批判というのとはちょっと違うようです(この辺りはちょっとあいまいです)。
 
 
それにしても受難の国というか…受難がない国はないかもしれませんが、戦いに参加する民衆の数も、犠牲になった人の数もおびただしいな、という感じがします。
詳しく書きませんでしたが毛沢東が行っていた58~61年の大躍進政策はチベット地域でも行われていて、農業集団化によって餓死者も多く出ています。
そんな状況で何万人も町に出て戦ったそのエネルギーを考えるだけで、彼らにとってチベットの地や宗教、法王の位置づけというのがよくわかります。
 
 
次回は2000年代に入ってからのチベット問題について、考えてみたいと思います。