世界の備忘録

歴史上の忘れたくない事件などをまとめていくブログです。

備忘録その34 チャウシェスク政権下のルーマニア

忙しい時こそ「旅行行きたい病」にかかりがちですよね。
ちょっと一息つく頃には「家でゆっくりしてたい病」にかかります。
本当、人間って複雑だなと思います。
 
 
さて。そんな私が行きたい国のうち五本の指に入るのが、ルーマニア。
 
最近では治安も安定していると聞きますが、やはりこの国も「危ないからやめといたら?」と言われる国です。
それでも行きたいけど。
 
革命までの道のり
ルーマニアで革命がおこったのは1989年(44年にドイツ側からソ連側に寝返ったのもルーマニア革命と呼ばれてますね)。それまではニコラエ・チャウシェスクの独裁政権下にありました。
 
ソ連とは距離を置いても大丈夫なくらいエネルギー資源が豊富な国でした。
 
 
ということで外国に頼る必要がなくなると、当時書記長/国家評議会議長、その後大統領に就任したチャウシェスクが独立体制を作り上げます。
 
 
しかし、80年代に入って経済が疲弊していきます。国民は困っているのに、チャウシェスクは豪華な宮殿を建設するなどします。
 
結局89年の12月16日に多くの犠牲者を出すデモが発生し、その後も混乱や革命勢力による攻撃、チャウシェスクの逃亡など混乱が続きます。最終的にはチャウシェスク夫妻が特別軍事法廷にかけられ即日死刑となるのですが、デモから処刑までわずか九日の間の出来事でした。
 
処刑の映像は当時全世界で公開されていたようですし、私も見たことがあります。一度見ると頭から離れないなかなかのショッキング映像でした。
 
 
細かいことは色々ありますが、私がこの革命について考える時、いつも思うことがあります。
「独裁って結局は崩れるけど、国民は倒れる時期になるまで待つか危険を顧みずに戦うしかない」という点です。
 
この革命もチャウシェスクの演説中に起きた二発の爆発音(恐らく爆竹?)がきっかけで人々がチャウシェスク打倒を唱え始めたといいます。
 
チャウシェスクが揺らいでいる絶妙なタイミングでの爆発音、そして民衆の叫びがあったから一気に打倒となったわけで、大きな経済の疲弊を経験して国民の鬱憤がたまっていたからなんですよね。
 
ということは独裁者が生まれると、こういった揺らぐ瞬間まで国民は本来守ってくれるはずの国を相手に戦ったり、じっと耐えるしかないわけです。本当は経済が疲弊する前になんとかなれば一番良いと思いますが、歴史を見るとそうはいっていない。
いつも独裁者が独裁して、泥沼までいって、弱って、やっとひっくり返る。
 
目先の理想や権力に欲を出したら国民はみんな犠牲になる。
最後には自分に返ってくる。
もう何人の独裁者が経験しているでしょうか。なのになんで、なくならないのか。
目先の理想がそれほど甘くおいしいものに見えるんでしょう。
それにしても不思議です。