世界の備忘録

歴史上の忘れたくない事件などをまとめていくブログです。

備忘録その35 ザンジバル革命での悲劇

最近五日に一回はカレーです。日本のおいしいカレーが食べたいなぁ。
 
 
今日は第二次大戦後のザンジバルでの事件についてです。
思えば学校の世界史でのアフリカ現代史といえば飢餓やマラリアや貧困などのことばかりだった気がするのですが…気のせいですかね?
とにかく、私にとってザンジバルはなかなか世界史でも知る機会がなかった国でした。
 

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ザンジバルの独立~政権争い
1963年、ザンジバル王国はイギリスから独立します。
その際に選挙が行われていたのですが、アフリカ系のアフロ・シラジ党(ASP)が13議席を獲得するのですが、アラブ系の国民党(ZNP)12議席、アフリカ系親アラブのザンジバル&ペンバ人民党(ZPPP)6議席が連立政権を発足させたことで過半数を得ていたにも関わらずASPが野党になりました。
 
これに不満を持ったのが、ASP青年団のリーダー、ジョン・オケロ。
彼を仲間を集め、警察署を襲撃、憲兵隊や放送局も陣取ります。そして国王に家族を殺し、自殺するよう要求します。
 
国王と政府高官は逃亡します。
 
このオケロという人物。何者かというと―カストロに心酔しキューバで訓練を受けたウガンダ出身の青年でした。
最初は混乱を起こす程度のつもりだったようですが、結局9時間ほどで革命を成し遂げる結果となりまし
た。
 
 
しかし!
この後、国内のアラブ系に対しアフリカ系は殺戮を行い、5000人~1万2000人が犠牲となりました。
生き残っても財産を取られ国外に出るしかなかった人々が多かったため、正確な犠牲者の記録がわからないようです。
なぜ虐殺が起きたかというと、オケロが「アラビア人で隠れている人がいたら殺せ」などと話しており、アフリカ系の戦士たちが扇動されたからです。
 
この犠牲者…必要だったんでしょうか。
後々政治を維持しようと思うと、アラブ系を減らしておく必要があったと判断したんでしょうかね。
 
あまり情報がなくまだ詳しくは調べられていないのですが…大混乱の中では暴力行為は加速することはあっても落ち着いて鎮めるって難しいですもんね…にしてももうちょっと何かなかったのかな、と思います。
 
結局ジョン・オケロは最終的にはウガンダに帰り、独裁者で知られるイディ・アミン大統領によって殺害されてるとかいないとか…(要するに消息不明)
 
 
大きな革命には大きな犠牲が伴うということでしょうか。でも、アラブ系とアフリカ系が元々住んでいた国なら、連立政権になった時点で共存に向かえばいいのに…って思いますが、まぁ無理なのか。
言うは易しですね。