世界の備忘録

歴史上の忘れたくない事件などをまとめていくブログです。

備忘録その23 アルメニア人虐殺

こんにちは。
ロシアの飛行機事故のニュースがちょっと怖いなぁと思ってみてました…落雷で飛行機落ちるのか?
世の中にはグレーな事故や事件っていっぱいあるんだろうなぁと考えながら眠りにつきました。
 
 
スーダンのことがなかなか進まず…
関係ないですが前に調べたアルメニア人虐殺事件からまず書いていこうと思います。


 
第一次世界大戦中の1915年―1916年におよそ200万人いたオスマン帝国のアルメニア人のうち、80万人が虐殺された事件です。
途方もない数ですね。
 
いつも思うことですが、その国に、その時代にアルメニア人として生まれただけで、こんな仕打ちを受ける…いいのかこれで。
 
さて。
冷静になって考えてみます。
 
オスマン帝国ってどんなところだった?
多民族・多元的国家でした。しかし、キリスト教徒であるアルメニア人の存在が国にとってひっかかることだったようです。
 
それはなぜか。
当時トルコ人は多民族的国家を認めながらも、トルコ人がトップに立った政治を目指していたからです。
アルメニア人はその宗教的な違いからもわかるように、トルコの目指す政治にとっては邪魔者でしかありません。しかも、オスマン帝国におけるキリスト教徒は少数派と言えますが、他のイスラム教徒は様々な言語や宗派に分かれており、それも含めるとアルメニア人自体はマイノリティではありませんでした。
 
それに、ロシアから南下してくるキリスト教勢力とアルメニア人が手を組むなんてことがあったら目もあてられない事態になるので、排除するという考えに至ったようです。
 
 
また、虐殺には女性や老人、子供の衰弱を狙った行進の果ての死や、生きたまま海に投げ込むなど、武器を使わない、いわば低コストな方法が選ばれています。
男性のうちオスマン軍に所属していた者もいましたが、そういった人々はまず武装解除させ、アレッポの方まで移送(行進)させるなどしましたが、たどり着くものは少なかったそうです。
 
 
一連の事件に関する調査は、1916年にイギリス人歴史家のアーノルド・トインビーによって報告されますが、トルコ側はジェノサイドとは認めておらず(アルメニア人の反乱があったというような言い分、もしくは無視を貫くなど)、今もこの件についてはタブー視が続いている、とのことです。
 
 
うーん。これまたアメリカの先住民虐殺の際のリンカーン大統領を見るようなもやもや感ですね…
虐殺だと認めたら、補償とかそういう問題が出てくるんだと思うんですが…
また松井(2010)によると、この認知問題はトルコのEU加盟とも関係してくるようで…(人口や地理的な問題の方がより大きな問題だとは思いますが)
 
今後どういった動きになるか、注意深く見ておきたいと思います。
 
 
参考にしたもの
松村高夫(2002) アルメニア人虐殺1915―16年, 『三田学会雑誌』94-4
松井真之介(2010)オスマン帝国の1915年「アルメニア人ジェノサイド」におけるフランスの認知問題ーEU, トルコ, フランス― 神戸大学大学院国際文化学研究科 異文化研究交流センター 研究部2009年度プロジェクト報告書『ヨーロッパにおける多民族共存――多民族共存への多視点的・メタ視点的アプローチ』   41-60