世界の備忘録

歴史上の忘れたくない事件などをまとめていくブログです。

備忘録その40 「水晶の夜」事件が起きたわけ

1938年、11月9日、10日。
ドイツ各地、そしてオーストリアやチェコスロバキアで反ユダヤ主義を掲げた暴動が起こりました。
 
 
ナチス親衛隊などがシナゴークやユダヤ系の百貨店などを攻撃し、ガラスが道路に飛び散ったため、その様子から「クリスタル・ナハト(水晶の夜)」と呼ばれることになります。
 
 
これがユダヤ人迫害を加速させたとみられている大きな出来事でした。
 
この事件が起きたきっかけについて今日は掘り下げてみたいと思います。
 
エルンスト・フォム・ラートという人物
ナチスが説明したこの「水晶の夜」を起きた理由は「報復」もしくは、「市民の怒りの爆発」でした。
何に対する報復かというと、ナチス党員のエルンスト・フォム・ラートという人物がユダヤ系ポーランド人の17歳の少年ヘルシェル・グリュンシュパンによって暗殺された事件でした。
 
ヘルシェルはなぜエルンストを殺害したかというと、自分の家族が住んでいたドイツからポーランドに追放され、困窮した生活を強いられていたからです。
ヘルシェルは当時単身フランスに住んでいました。
 
移住を強いられたユダヤ人の惨状を訴えるためにフランスのドイツ大使館書記官であったエルンストの殺害を決心し、実行に移します。
 
銃撃されたエルンストは銃撃から二日後の11月9日に息を引き取ります。
この日は偶然にもミュンヘン一揆記念日という日で、ミュンヘンにナチス党員が集結していました。
ここでヨーゼフ・ゲッペルスが暴動を扇動するような―自然な暴動なら止められないというような趣旨のーことを話します。
 
 
これによって、11月9日夜から10日朝にかけて暴動が起きます。
ゲッペルスの発言は攻撃命令だと取られたわけです。
しかし市民の暴動を装うため、多くの党員が私服を着ているなどの工作もされていたそうです。
 
こちらははっきりした情報ではありませんが、エルンストは反ナチス主義で(同性愛者だった)目をつけられていたため、エルンストの死がナチスにとって痛手というわけではなく、単に暴動を起こすために利用したという話もありますね。暴動の始まりの号令は「フォム・ラートの復讐を!」だったそうですが…
 
一方ヘルシェルは記録上は1945年5月にザクセンハウゼン収容所で死亡したことになっているそうです。
 
 
ヘルシェルがこの事件を起こしてなくても、遅かれ早かれ迫害は加速したとは思うのですが、それでも暴力が更なる暴力を呼んでしまった感じはしますね…
 
 
 
参考にしたもの
United States Holocaust Memorial Museum
渡邊修(1998), 「水晶の夜」から六十年, 駒沢女子大学国際学科